伊覩捷手勝盛 伊覩神社 勝盛大神


福岡市西区周船寺にあります伊覩(いと)神社に参拝しました。

伊覩神社の鳥居

本殿の御祭神は瓊瓊杵尊、木花開耶姫尊、伊覩県主命と記されていましたが、

本殿よりも摂社の方が気になりました。

摂社 勝盛神社

摂社にお参りしてみると、「勝盛神社」という扁額が掛けられています。

御祭神は勝盛大神。

勝盛大神様にお話を伺いました。

お名前は?

伊覩捷手勝盛(いとのはやてかつもり)。

三韓征伐の時に、この地で力を貸された方。

伊都の人たちをまとめて、仲哀天皇・神功皇后に協力されたようです。

神功皇后が三韓征伐に向かわれた折はこちらの伊の港から出発されたが、その船、兵士、戦備、兵糧などをこの地ですべて整えた。

航海術を備えた者たちを集めて安全に海を渡れるようにしたこと、その船と戦備、人と兵糧を整えたこと、我々の中で最も頼りになる者を供として派遣した。

安曇一族の系列のこの土地に住んでいる者たち、安曇磯良さまは、志賀島に拠点を持っているが、我々は伊覩の沿岸部に拠点を持っている

同じ海の一族の系列である。

磯良さまが協力されるということだったので、こちらの伊覩、博多湾岸、宗像まで、一帯の海人族で協力することになった。

その中でも、伊覩の港から出立されたのであるから、出立するための準備に我々は尽力した。

にもかかわらず、伊覩の尽力は忘れ去られている。

歴史が正確に伝わっていない。事実とは違うことが伝わっている。

それが今の状態を来している原因だと思われる。

そこを正しく伝えてほしい。

我々全体が五十迹手(いとて)と表されておる。

伊覩の県主という役職は、三韓征伐から戻ってからできた役職。

三韓征伐がうまくいったことによって、伊覩の県主という役職がつくられた。

五十迹手は、三韓征伐の後にこちらに来た方の名である。三韓征伐が成功したことによって三韓が伊覩国と一つになった。そしてその証として、三韓を治めておられた方がこちらに渡って来られ、こちらに住まわれることになった。

三韓が背かないために、その王族が五十迹手という名でこちらに住まれ、それに伊覩県主という職を冠したということである。

三韓の王族がこちらへ来るということは、こちらが本国であるということの証であるから、大きなことである。

その際にこの地をまとめたのは我々である。

五十迹手様がこの地に安全にお住まいになれるように整えたのも我々である。

そして、その安定の上にこちらの朝廷が続いていったということである。

伊覩国は一つの大きな勢力であり、この地を味方にせずして三韓征伐の成功はなかった。それに協力したということは大きなことであるから、伊覩国の存在と共に、本当のことを皆が知るべきであると私は思っておる。



(当時、神功皇后として行動しておられた玉姫様からのお応え)

その節は、大変お世話になりました。

あなた方の力がなければ三韓征伐は成し遂げることはできませんでした。大変尽力していただき、本当にありがとうございました。私達も本当に感謝しております。その存在をないがしろにしているわけでは決してありません。お礼を申し上げることがなかなかできず、大変失礼しました。あなた方の働きがなければ成功することはなかったということは十分に承知しております。ご尽力いただき、ご協力いただき、本当にありがとうございました。ご尽力・ご協力いただいたことが一番の成功の要因だとわきまえておりますから、お怒りを鎮めいただき、ご理解くださいますようにお願いいたします。

これからは、私どもを含むすべての者が協力して、再びこの国を造り変え、盛り返していかなければならないときです。お怒りをお解きになり、当時の寛大なお心を取り戻していただき、これからのこの地の発展のために、再び快くお力をお貸しいただけることを心から願っております。どうかお許しいただき、ご協力いただきますように、お願いいたします。



(勝盛大神さま)

ご理解いただき、大変ありがたいことでございます。

玉姫様とお話ができましたことを、私も大変喜ばしく思います。

きちんと私どもの働きと心をご理解いただいておりましたことがなによりの喜びです。

これから再び、時の流れが昔に戻り、また同じようにこの国を守らなければならない時が来ているようです。我々の子孫たち、この地に住む者たちが、安全にこの国を守り伝えていけますように、見えない世界からではありますが、協力してまいることを心からお誓い申し上げます。

この国を守り伝えてきた者として、皆協力して、手を携えてまいりましょう。

これからは、一つになることが大きな力になると心得ております。

私の気持ちをご理解いただけましたことで、協力していくことに心のつかえがとれました。

快く協力させていただきます。

我が国として、再び一つに手を結び、あの時と同じように、あの時よりももっと豊かな国を造ることができますように、我々も尽力してまいります。

本日は、お参りいただきありがとうございました。


勝盛大神様のお怒りも解けたようで安心しました。

伊覩の地には、現代の私たちが知らない歴史がたくさんあるようです。

今回の勝盛大神様のお話も、私たちが伝え聞いている歴史とは異なる内容が多分に含まれますが、勝盛大神様からお聞きしたこととしてそのまま記述しました。

何が歴史的事実に当たるのかはさまざまな調査・検証が必要なところではありますが、事実が後世に正しく伝えられていないことがわだかまりとなって現代に影響を及ぼしていることもありそうです。

そのわだかまりが少しでも晴れ、これから作られる歴史が少しでも明るいものになるように願っています。

勝盛大神様、玉姫様、貴重なお話をお聞かせくださりありがとうございました。

<伊覩神社>

御祭神 瓊瓊杵尊 木花開耶姫尊 伊覩県主命

もとは主船司神社といわれ、創建の時期は不明です。江戸時代前期の神社名は、松の木天子社で、その後松木天神となり、伊覩神社となったといわれています。
旧神殿の右には明治の中頃まで幹周り7メートル余りの松の大木があったそうで、そのことから「松木」と名前が付いたと思われますが、この木は落雷により枯れてしまいました。
なお、周船寺という地名は、一説によると、奈良時代大宰府政庁の時代に船を司る役所(主船司)があったことに由来するといわれています。

<瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)>
高天が原より、地上の日高の高千穂の峰に天降り豊葦原の水穂の国(日本)を治められた神様です。

<木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)>
瓊瓊杵尊とご結婚なされて、海幸彦、山幸彦等三人の方の御母神様で神武天皇の御祖母様にあたられます。

<伊覩県主命(いとあがたぬしのみこと)>
紀元八百五十年頃(今より約千八百年前)仲哀天皇並びに神功皇后に仕え伊覩の国の県主(古墳時代の地方長官)でこの神社の東、四百米右側の小高い丸隈山古墳が、この県主命の墓と言われています。



<伊覩神社 摂社 勝盛神社>

御祭神 勝盛大神

福岡県神社誌によると、勝盛神社は、以前、宮地嶽神社と呼ばれており、御祭神は勝門姫命、阿部高丸神霊、阿部助丸神霊である。

勝盛大神は、勝門姫(かちとひめ)命と名を変えられて祀られていたようだ。勝門比売は古事記に登場する「岩」の名前。「末羅県の玉島里」の小川の岩。(佐賀県唐津市)

なお、石見神楽の「塵輪(じんりん)」によると

塵輪は新羅国の鬼で、8つの鬼の顔からなる怪物。
仲哀天皇7年(西暦198年)、この塵輪が熊襲(くまそ)を扇動して第14代仲哀天皇の仮皇居であった豊浦宮(山口県下関市)に攻め込んできた。
黒雲に乗って空から攻撃する塵輪に阿部高丸(藤高麿)、阿部助丸(藤助麿)に門を守らせたが、相次いで討死。
仲哀天皇は「空から射かける者、尋常の者にあらず。我が身をもって征伐せしめよう。」とおっしゃると、自ら弓矢をとって塵輪を射落とした。

この時に、討ち死にしたのが、阿部高丸、阿部助丸。安曇一族の者である。

宮地嶽神社(福岡県福津市)に、神功皇后と供に、勝村大神(藤高麿)、勝頼大神(藤助麿)として御祭神として祀られている。

王城神社縁起 胸肩県主に阿部高丸・助丸の名が
https://lunabura.exblog.jp/28750555/

ちなみに宮地嶽神社では、2月下旬、10月下旬の年に2度、鳥居の石段から宮地浜まで真っ直ぐに伸びる参道の延長線上に夕日が沈み、「光の道」と呼ばれている。この夕日と参道が一直線に並ぶ光景は、2016年2月に放映された嵐が出演する日本航空のCMをきっかけに有名になり、「光の道」とよばれるようになった。



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