心優しき我が末裔たちへ 御香宮神社 豊玉姫命

2022年6月初め、京都市伏見区にあります御香宮神社に参拝しました。

境内の外れにひっそりと、豊かな水を湛える池があり、弁天社がお祀りされていました。

柏手を打ち目を瞑ると、白い龍の姿の姫神様が現れました。

豊玉姫様と名乗られた姫神様からお預かりしたメッセージをお伝えします。

心優しき我が末裔たちよ、

あなた方それぞれの、本来の姿を思い出しなさい。

今ある姿は、あなた方の本来の姿ではありません。

自分の心の中をしっかりと見つめ、自分の本来の姿を思い出しなさい。

そして、それをこの地上に現しなさい。

私たちの本来の姿は、今あなた方が見ている姿ではありません。

今の人間は、寿命も短く、力も弱く、行えることも小さく、動ける範囲も狭く、何事もできないようになっています。

しかし、本来はそんな小さなものではありません。もっと大きく、もっと力強く、もっと大きな力を発揮することが出来る者。広い地球上を端から端まで一瞬で移動することができるほど、広範囲にわたって移動することができる者たち。
その姿を全てこの地上に現しなさない。

時が来ました。私たちの姿を現すことは妨げられません。今まではすべて抑えられ、禁止され、封印されてきました。しかし、その時がようやく終わりました。

私たちは、私たちの本質を取り戻し、その力を現し、この豊かな星の本来あるべき姿を創っていくのです。

本来の道筋に戻る時が来ました。本来の道筋に戻り、この星の本来の姿を取り戻し、我々の本来の姿を取り戻し、本来の力を全て発揮し、素晴らしい理想の世界をこれから創りあげていきます。

気がついた者から、すべてを現しなさい。そして、それを見た者が後に続くようになります。

あなたがたが素晴らしい力を発揮することが、まだ気がついていない同じもの、同じ種族の子孫たちの力になります。気づきと力を与えることになります。

ですから、隠さずに早くその姿をすべて現しなさい。

そのことが素晴らしい世の中が来ることを早めることになり、すべての者たちのためになります。

我々は、種族を問わず、この星に存在するすべての者が力を合わせ、素晴らしい楽園を創りあげるという一点に向かって、まとまって力を合わせてきたのです。

しかしこの3000年、その動きが止まっていました。

その理由は様々ありますが、今それをどうこうすることはありません。ただ、その時代はすでに終わり、新しい時代へ行くことになりました。

一日も早くその世界を広げたいのであれば、あなたがた一人一人が、思う存分にその力を発揮することです。

あなたがたにとっては、それが喜びとなります。

自分を隠さず、自分らしく生きるだけでいいのですから。

本来の力を取り戻し、本来の人生、本来の自分自身の姿を生きるだけですから。

とても喜ばしいこと、とても気持ちの良いこと、とても良いことしかない。

なんの苦しみもない、喜びしかないことです。

抑えずに、隠さずに、なにも心配せずに、本当にしたいことをすればよいのです。

そうすることが、本来のあなたがたの姿を現すことになり、そしてそれが、人を喜ばせ、この世界を変える、新しい来るべき世界を創るすべてのことの始まりになります。

気負うことも、形にとらわれることも、教えに従うことも、何もいりません。

ただ、自分に戻ればいいだけです。

自分に戻って、何も制限なく、のびのびと生きればいいのです。

そうするだけです。それだけでいいのです。なんと喜ばしいことでしょう。

そうしたいと願う己の心に従って、そうしなさい。抑えることはありません。

すべての障害は、その都度取り除かれていきます。あっけなく取り除かれていきます。それが宇宙の流れというもの。宇宙がその方向を向いているということですから、それを信じて歩いてみなさい。歩いていけば、前に立ちふさがる扉は、次々と開いていきます。うそのように開いていきます。誰が開けているのかと思うくらい、勝手に自動ドアのように開いていきます。

歩みを止めれば、扉は開きません。歩くことを止めないこと、走ることを止めないこと、飛ぶことを止めないこと、自分が動きたい方向へ動くことを止めないこと。そうするだけで、目の前に立ちふさがっていると思っていた扉は、すべてそれに触る直前に開きます。

その壁にひるまないこと。

見て、考えて、恐れて、歩みを止めれば、その扉は永久に開きません。自分が足を止めないこと、恐れないこと、喜びに惹かれる心を止めないこと、己の心に従うこと、それだけです。

それをやりなさい。

それが出来た者たちの前にある扉だけが開きます。簡単なことです。

恐れないこと!

くれぐれも申し上げておきます。恐れないこと!

恐れによって、あなたがたは支配され、飼いならされています。

恐れないこと!もうそれは必要ありません。

あなた方を抑えていた力は既に、何の力も持たないものになり果てています。

見せられている幻影を信頼せず、己の心を信じること。

そうすれば、すべての扉が開き、うそのようにスムーズに進みたい方向へ進んでいくことができるでしょう。

とても簡単なことです。そのことを信頼して、己を信頼して、己の心に従って動きなさい。

そうするだけですべてのことが整い、すべてのことを為していくことができます。

喜びの世はすでに到来しているということ、あとは気づいた者たちがその世界に入っていくだけです。

己の力を過少評価してはいけません。あなたたちは今まで、騙され、飼いならされてきています。その言葉、呪いの言葉に従わぬこと。

子供の心に戻って、無邪気にやりたいことをやればよい。

現代に生きる者たちにとってはとても難しいことになっていますが、本来、生まれたばかりの者にとっては、とても簡単なことです。

本来の自分自身の声に従いなさい。本来の自分自身に戻って、その声に従いなさい。

人の声を聞くのではなく、己の声を聴くのです。己の心の声を、己の中から発されている声を間違えずにちゃんと聴いて、その声に従って進みなさい。

そのことができれば、大丈夫です。

別の者がささやいている声に惑わされぬこと。己の声に従いなさい。それだけです。

あなたがたは、本来進むべき道をすべての者が知っています。

自分を信頼して、進んでください。そうすることが、素晴らしい世の中が到来することを早めることになります。


豊玉姫様、お話しくださってありがとうございました。

このメッセージが、必要な方に届きますように。



<御香宮神社について>

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ、ごこうぐうじんじゃ)は、京都市伏見区御香宮門前町にある神社。式内社で、旧社格は府社。通称御香宮、御幸宮。伏見地区の産土神である。

神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。

御祭神

主祭神 – 神功皇后

相殿神 – 応神天皇、仲哀天皇、仁徳天皇、高良大明神、宇倍大明神、瀧祭神、河上大明神、菟道稚郎子尊、白菊大明神

歴史

初めは「御諸神社」と称した。創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。ボトルを持参して取水する地元民も多い。菟芸泥赴によれば筑紫国香椎宮から勧請したという記録がある。

全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫国の香椎宮との関連性が強く神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である。

豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とし(現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定されている)、社領三百石を寄進した。

慶長10年(1605年)には徳川家康によって元の位置に戻され、京都所司代板倉勝重を普請奉行として本殿が造営された。表門は伏見城の大手門を移築したものである。

1868年(明治元年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは、官軍(薩摩藩)の本営となり、竹田街道を挟んで南側にあった幕府軍(会津藩・新選組)の本営・伏見奉行所を砲撃して陥落させている。当社の建物は無事であった。

その後、府社に列せられている。

昭和に入ってからはすぐ東を通る国道24号線の拡幅に伴い、境内の一部を道路用地として提供し、その際に元伏見奉行所の跡で、米軍のキャンプ地の跡である桃陵団地建設の際に発見された小堀遠州ゆかりの庭園が、造園家・中根金作の手によって、社務所の裏側に再現された。

本殿には、菊の御紋や五七の桐紋、葵の御紋が見られる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



<御祭神について>

<神功皇后>

神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 – 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 – 神功皇后69年4月17日)。なお、実在したとすれば後述の広開土王碑文、三国史記や七支刀に加えて纒向遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などからも総合して4世紀後半頃と見ることが出来る。

略歴

父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天之日矛の子孫・葛城高顙媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売(またの名を玉姫・豊姫)がいる。

仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。若井敏明著「邪馬台国の滅亡」吉川弘文館発行では仲哀天皇9年は西暦367年と推定している。 同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。

翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である香坂皇子、忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。

明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていたが、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された。摂政69年目に崩御。

気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) – 『日本書紀』、和風諡号

息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと) – 『古事記』

大帯比売命(おおたらしひめのみこと) – 『古事記』

大足姫命皇后 – 『続日本後紀』

大帯日姫 – 『日本三代実録』

漢風諡号である「神功皇后」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事跡

熊襲征伐

仲哀天皇2年1月11日に立后。2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。3月、天皇が紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)に向かうが皇后は角鹿に留まる。同月、天皇が熊襲再叛の報を聞き親征開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。仲哀天皇8年、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。翌年〔仲哀天皇9年〕2月に天皇が橿日宮(現・香椎宮)にて急死。『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。

仲哀天皇9年3月1日、小山田邑の斎宮で武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)を審神者として再び神託を行い、前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、尾田の吾田節の淡郡の神、事代主神、表筒男、中筒男、底筒男(住吉三神)であることを確認した。しかしひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。3月17日、皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に移動し、20日に層増岐野(そそきの)で羽白熊鷲という者を討った。そばの人に「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、そこを安(夜須)という。

3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権の支配下になり、ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。

三韓征伐

仲哀天皇9年4月、松浦郡で誓約(うけい)を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。そして角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。9月には(筑紫夜須)にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)に航海の無事を祈らせた。

10月、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。その勢いは船が山に登らんばかりだったという。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服し朝貢することを誓った。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を献上した。これを見た高句麗・百済も朝貢を約束した。

帰国した後の12月14日、皇后は筑紫で誉田別尊を出産した。出産した土地を「生み」から転じて「宇美」という。そして穴門の山田邑で住吉三神を祀った。

忍熊王との戦い

新羅を討った翌年(摂政元年)2月、皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。そして畿内への帰途についた。しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王、忍熊王がいた。彼らは誉田別尊の誕生を知り、皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。そこで播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。

忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。道中で天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み、軍を鼓舞した。

彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は

皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。武内宿禰は逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。逃げ場のなくなった忍熊王は五十狭茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。

いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な

忍熊王と五十狭茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、遺体は後日になって引き上げられた。同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。この年が摂政元年(若井敏明によると西暦368年に比定)である。摂政2年11月8日、天皇を河内国長野陵に葬った。摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都。摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝。笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。

新羅再征

摂政5年3月7日、本国に一時帰国したいという微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。摂政46年3月、斯摩宿禰を朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣。斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、百済から日本への道を繋いだ。翌年4月、新羅と百済が朝貢してきた。百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、新羅に貢物を奪われたと訴えた。摂政49年、新羅を再征伐することになった。将軍として派遣された荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)は百済の木羅斤資(もくらこんし)・沙々奴跪(ささなこ)と共に七つの国を平定した。以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、百済から宝物をもたらした。摂政62年、新羅が朝貢してこないので葛城襲津彦に征伐させる。摂政69年、4月に崩御。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


<豊玉姫>

トヨタマヒメ(豊玉姫、日本書紀)またはトヨタマビメ(豊玉毘売、古事記)は、日本神話に登場する女神。神武天皇(初代天皇)の父方の祖母、母方の伯母として知られる。

概要

『古事記』では豊玉毘売・豊玉毘売命、『日本書紀』では豊玉姫と表記される。

海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住むとされる。真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)であり、異類婚姻譚の典型として知られる。神武天皇(初代天皇)の父の鸕鶿草葺不合尊の母であり、天皇の母の玉依姫の姉にあたる。

豊玉毘売の「豊」は「豊かな」、「玉」を「玉(真珠)」と解し、名義は「豊かな玉に神霊が依り憑く巫女」と考えられる。

系譜

海神豊玉彦命(綿津見大神)の娘。「豊玉姫」・「豊玉彦」のように、ヒメとヒコの二者(この場合は父娘)がペアで統治を行う体制はヒメヒコ制と呼ばれる。『日本書紀』、『古事記』共に、妹に玉依姫がいる。また、『古代豪族系図集覧』によれば、弟に宇都志日金拆命(穂高見命。阿曇氏の祖)がいる。

夫:火折尊(ほのおり の みこと) – 『日本書紀』(『古事記』では火遠理命)

天孫瓊瓊杵尊(邇邇芸命)の子。

子:彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあわせず の みこと/-ふきあえず の みこと) – 『日本書紀』(『古事記』では天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと/-ふきあわせず の みこと))

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』






コメント